大津キリスト教会の米村牧師の著書を紹介します



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旅人

旅人 ーアブラハムの生涯からー

《スプア宣教師の若き日》

   —目次—
 スプア宣教師との出会い ー序にかえてー
 日本に向けて
 サスカチュワンの農場
 家庭教育
 回心
 ナザレン教会
 宣教師としての召命
 年譜

   ーまえがきー
 高校生の頃、宣教師に出会い、彼女のノーブル(高貴)な生き方に深く心を動かされた私は、自分もクリスチャンになって彼女のような人生を送ってみたいと強く思いました。
 が、同時に、まだこの世の栄達にも未練があり、私の心は揺れていました。
 そんなとき、ある説教者が引用した次の聖書の言葉が私の心を打ったのです。
「人間には、一度死ぬことと死後のさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
 私は思いました。
 ああ、そうなのだ。死後の世界はある。この地上の生活がすべてで、来世も復活も天国もなければ、人生はあまりに矛盾に満ちている。人生は、ただ富めばよい、成功すればよいというのではない。やはりいかに生きるかが問われているのだと。
 地上の人生は来世と深くかかわっていたのです。
「人生の意義は、この世をば、ますます高い目標を追って進むこの次の存在のための学校だと見なさないかぎり、どんな哲学や宗教によっても、十分明らかにはされない」
 と言ったのは、スイスの思想家ヒルティです。
 人間は死んだ後に、さらにすぐれた段階に入るだろう。地上における人生はそのための学校だと彼は言うのです。
 人生とは、考えてみれば、わずかないくつかの出来事で成り立っています。誕生、進学、就職、結婚、退職、遺言、葬式。
 私はどこまで来たのでしょうか。人生が学校なら、これらのことを通して神は私を教育し、そして私の魂を作り上げてくださっているに違いありません。
 本書は、創世記の冒頭の言葉から始まり、信仰の父と呼ばれるアブラハムの物語へと移ってゆきます。
 アブラハムの人生にも段階がありました。出発があり、別れがあり、結婚があり、子の誕生があり、妻の死がある。そしてやがて彼自身の死がやってきます。
 アブラハムは、地上では旅人であり、寄留者であると告白し、天の故郷にあこがれつつ生きていました。しかし、地上の事柄もおろそかにはしなかった。むしろ目の前に起こって来るひとつひとつの出来事に、ていねいに、そして誠実に向き合いながら対処してゆく。そういう彼の姿が描かれているのです。
 彼は知っていたのでしょう。やがてそれらが彼自身の魂を作り上げるものであることを。
 そんなアブラハムの生涯を、自分の人生の段階と照らし合わせながら追ってみました。
 70台半ばを過ぎた私は、もう旅の終わりに近づいていると言ってよいでしょう。
 しかし老年期について悲観的な見方をすることのなかったヒルティは、こう言っています。
「老年は、慰めのない衰退期ではなく、あるべき将来を達観して、さらに今後の発展のために準備する時期である」と。
 地上の旅人として生きたアブラハムも決して悲観的ではなかった。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、彼に落胆の様子はみじんも見られない。
 心が天の故郷に向けられていたからでしょう。
 私も、できればそんな旅人として、この地上の生涯を歩んでゆけたらと思っています。
 そこでこの本の題を『旅人』としました。
 またこの本の最後に、私を信仰に導いてくれたユーレラ・スプア宣教師についての文章を載せさせていただきました。
 この宣教師との出会いについては、これまでも何度か述べてきました。
彼女が天に召されてもう12年になります。
 まだお元気であった頃、日本での宣教生活50年の記念誌をつくる計画があり、私は彼女の若い時代の紹介を依頼されていたのです。
 そこで書き上げたのが、『スプア宣教師の若き日』です。
 しかしながら、記念誌の作成がなかなか進展できずにいましたので(今も未完成)、その部分だけを小冊子にしたところ、拙文にもかかわらず、スプア宣教師を親しく知る方がたには喜んでいただけました。
 でも、それからもうだいぶたちます。
 そこで今回、もっと広く、いろんな方にスプア宣教師のことを知っていただきたいと思い、巻末に加えることにしました。
 お読みいただければ、うれしく思います。

                      米村 英二